「時給が上がってん」
「また?」
「そやねん。上司に『あたしら13年も昇給なしやったのにトントン拍子に上がるやんあなた、ラッキーやで~』て言われてん」
「さすが運とカンだけで生きてるだけあるな」
これまでは、カンなんて存分に私のチカラだし、努力だってしていると主張してきたが、どうやらココまでくるともう運9割強で生きてるかもしんない。
私の人生、運しかないかもな。
今回の昇給は、14年間も勤め上げたパートさんが辞めたのが理由だと囁かれている。
実際にそうだと思う。
そのパートさんにお話しを聞く機会があって、辞める理由は何なんですかと聞いたら、理由はひとつではないけど一番大きいのは子供にお金がかかるようになって、それでもっと長い時間のパートに転職するなら年齢的にも今が最後じゃないかと思ったことかなとおっしゃった。
辞めると決める前に誰かに相談出来たらよかったのだろうけどもう決めてからの報告になってしまってとも。
「前にメールがまわってたでしょう?身辺の事で何か悩みがあるひとは社長に相談してください、ていう内容の」
「あぁ~!じゃ、あの時にはもう辞めることが決定的になってた、ゆーことだったんですか?」
「じつは、そうやねん」
新しいパート先が決まっていて辞める以外の選択がある状況ではなかったため、14年も会社で働いてくれ仕事内容も把握してくれているパートさんが辞めるのを、引き留めることが出来なかった、それを重くみたからこその一斉メールの内容だったのかアレは。
相談内容のメールは社長しか見ないし秘密は厳守する、メールで相談がしにくい場合は電話でもよいと社長の携帯番号も書いてあったので、急にどうしたのだろうと思っていた。
社長が美輪明宏のようにスピリチュアルなほうに行っているのではないかと3時間ドキドキが止まらなかったけど、真相はパートさんの辞職にあったようだ。
今まさに『働き方改革』の試みがいろいろな会社でなされ始めたが、どれほどの思い切った決断があるのかな、と思う。
会社の経営を維持しながら働いているひとたちの働き方の希望に応えていくのには、会社としての損失なくして実行は出来ないと思う。
その損失の目に見えるカタチが、お金である。
売上であり、人件費である。
売掛金であり買掛金であり利益準備金であり小口現金であり当期純利益であるわけだ。
会社経営で動いているお金から、私の給料は支払われている。
損失の目に見えないカタチは、人である。
会社に貢献している人たちの、心であり存在そのものである。
ミスを学びに変えるアドバイスをしてくれる先輩であり、働くことにやりがいを感じさせてくれる同僚であり、初心を思い出させてくれる後輩である。
このひとのもとで働いていたいと思わせてくれる上司が会社に居ること、会社のトップから得たい姿勢がたくさんあると思い知らされること、これらの人々が新入社員に与える影響は大きく、これから先その新人が必要不可欠な人材に育つということは会社にとって大きい。
同じ会社で働くひとたちを見、そして見られてもいる私もまた、会社の一員である。
私の時給が50円上がったことで、私がとんでもなく裕福になることはない。
年間70万の長男の授業料を稼ぐのが目的で働いているが、約2年働いてみて薄々そうじゃないかと思ってはきたがどうも足りていない、おそらくずっと足りないだろう。
何かしらの変化があって今後、ものすごくお金がかかる事態となって3時間のパートをフルタイムのパートに変えねばならぬ人生になる可能性もないとは言い切れない。
でも、もしそうなったら私は一斉メールを思い出し社長に電話をすると思う。
勤続年数14年のパートさんが辞めてしまった結果を受けてパート全員の時給を上げた社長の判断の早さに、人件費という損失を負ってでも人材を守りたい会社なのだと私は理解した。
辞めたパートさんは13年間、時給が上がらずに働いていたので今後も上がらないという思いはあっただろう。
14年という長い間には、誰しもが人生の変化を経験する。
14年前に子供を産んでいれば、その子供は14歳になるのだ。
自分も中年になり、物事を多方面から捉え、いろいろなことを加味して考えるようになる。
働くことに関してもたくさんのきっかけがその転機をもたらす。
その時の選択が会社を続けることではなく辞めることになるのは、会社に留まる理由よりも退く理由のほうが強いからなのだ。
辞職する大きな理由が金銭の問題だった場合、その人の価値をお金にすると会社が言っているのだ。
いろんな考え方があると思うが私は何よりも今回の50円がありがたかった。
キレイごとで喰ってはいけないのでお金に困った時にはハッキリとお金が欲しい、私は。
しかし私のことを会社がどう見積もってくれての50円であるか、という意味を欲しいか欲しくないかの基準にすべきなのだと今回は学んだ、その金額の価値も。
これまで私は会社に必要とされる人材でありたいと思って働いてきたし、この会社で働きたいかどうかという自分の感情が転職するかどうかの基準であった。
基準が変わったということではない。
私の基準に基礎が欠けていることに気付かされたのである。
必要とされる前に私は、育て甲斐のある人材だろうか。
育てる価値のある人間だろうか。
実際に育つ人間であろうか。
1時間に50円分、私は毎日3時間育つのか。
会社は育つと見積もり育てる価値を50円だと言っている。
私の生活を裕福にする金額ではない50円が、私が育つかどうかの価値に換算した時、こんなに大きな金額だったとは思いもしなかった。
まずは育て甲斐のある柔軟な人間でありたい、そして、10円や50円が持つ価値の意味を正しく理解できる基礎を持ちたい。
まさか自分が基礎を持っていないとは思わなかったな。
中年になってこの現実に気付くとは、なかなかヘビーやで。