5月に触れる平和

三十路という路を歩いた経験を持つご仁ならば覚えがおありだろう。
夏休みの宿題に「感想文を書く」という習慣がなかったか。
そして読む本は「平和図書」というジャンルではなかったか。
戦争に関する本を読み、その感想文を書くという宿題である。
1ヶ月も休みがある中でたった一冊の本でいいのだから、チョチョイのチョイである。私は「平和図書」の中から薄い本を選んだ。並んでいる本の中で、一番、薄いヤツである。だって夏休みには、遊びたかったんだもん。正直、そうゆう怠けた学生であった。しかし、その習慣のおかげなのか夏になると「平和図書」を読もうかというキモチになるものなのだ。学生の時に強制で読むことになっていた時には、2ページも読めばいいところで感想文だってサボっていたのに、自分からならば、戦争を知ろうという気持ちが湧く。勉強は強制されてやったって身につかないもんやなぁ、とつくづく思う。

さて、なぜに5月のまだ早いこの時期に、戦争について考えているかと言えば、我が子ヘイポーが修学旅行先の広島から帰って来、戦争についての感想を述べたからである。去年、長男である年子のチョモが行った時にも私は、我が子に同じことを訊いた。
「見たぁ?三輪車??見たぁ?時計??…聞くと見るとでは大違いやろぉ~??」
「…うん、確かに違いすぎた。」
私は、最初に長崎を見学している。そして次に広島に行った時、いままで「過去の出来事」でしかなかった戦争が衝撃的なリアルさを持って体感出来たのである。広島の原爆ドームはそれほどのすさまじさがあるのだ。私はその時までこの世の中に「恐ろしい」という感覚を持っていなかったが、広島の平和記念資料館ほど「恐ろしい」ところはなかった。
「今、行きたい。今、見たい。」
それが今の私の感想である。
小学生や中学生で見学する長崎や広島では、私にとってはあまりにも予備知識がなさすぎた。修学旅行に行く前にそれなりの勉強はするのだが、もともと勉強が出来る子供ではなかったし、明らかに生まれた時から平和があった。戦争をリアルに感じる年代ではないのである。ヘイポーは広島の「語りべさん」というひとの話をした。被爆体験者の方が当時のことを語ってくれるのである。昭和20年8月6日に投下された原子爆弾。広島で原爆の被害を受けたひとを直接被爆者と言うそうだ。その数は35万人前後と考えられている。その中に生き残ったひとが何人いるのだろう。そしてその体験を語ってくれるひとが、何人。64年前のことを語ってくれるひとの言葉に私たちはあとどれほどの時間、耳を傾けることができるのだろうか。体験したことを直接語れるひとがいなくなるということを、ヘイポーは感じているようだった。
「語りべさんがな?いなくなったら語りべさんの子供とか孫とかが、語りべさんになるん?」
「語りべさんが話した被爆体験はな、辛い気持ちしかないのはわかったやろ?それを語りべさんが自分の子供に話して、語り継いでもらおうとするのに、どれくらいの時間が必要やろうか?それを聞いた子供が、語りべさんとして語るまでに、どれくらい時間が要ると思う?」
私たちは、聞くことを考える前にまず、語ることについて考えなければならないのではないだろうか。

時期を同じくして我が祖父母が、イネさんと従姉の二人と共に知覧を訪れていた。
祖父が知覧へ行きたいと希望していたので、術後のリハビリを続けている祖母の体調などを考えて時期を選び「これから出発する」とイネさんからメールが届いたのが、ヘイポーが修学旅行へと旅立った日の翌朝のことである。
祖父のふぢおサンはまことにフザけた男で、私の知る限り一度たりとも真面目だったコトがない。我が子をおちょくり、我が孫をおちょくり、私の子供であるひ孫までおちょくった、アッパレな男である。マトモな会話が出来たためしがなく、いつだって泣かされた。くそジジィめ…今度こそギャフンと言わせてやる…ふぢおサンと私の冷戦は長々と続き、今もって続き、常に私がギャフンと言っている。そんなくそジジィであるふぢおサンが、知覧に行くのに64年という時間をかけたのだ。

父方の祖父であるもうひとりの祖父もまた戦争体験者であった。私が中学生の時にこの祖父は亡くなったが、全くと言っていいほど会話をしないひとであった。近所に曾祖父も生きていたが、曾祖父の口から戦争が語られたこともない。ふぢおサンも戦争を語ったことはない。ふぢおサンの若かりし日の写真から戦争体験があることは知っていた。兵隊の格好をしている写真を見たことがあるので、軍人教育を受けたのだろうということも予想は出来た。しかし私は訊かなかったし、祖父たちも自分からは語らなかった。孫が訊けば話したのか、それに答えることができるのは、今となってはふぢおサンただひとり。私の身近な戦争体験者である祖父たちが皆、口を閉ざした出来事が「戦争」である。

知覧から届く写真添付のメールの返信で私はイネさんに、ふぢおサンは戦争に行ったことがあるの?と訊いた。イネさんからの返事は、当時と今のふぢおサンをリアルに感じさせるものだった。
ふぢおサンは18才の時に、特攻隊ではなく別の隊の少年兵として知覧に待機していた。若い特攻隊員の自筆の最後の手紙に胸がしめつけられたと感想を言うイネさんが、宿舎などを見て「全く一緒じゃ、懐かしい。」と言うふぢおサンを「詳しかったわ」と表現したのだから、ふぢおサンは当時の知覧の様子を、さぞかし細かく説明できたのに違いない。石碑に友人の名前を一生懸命探していた、という一文に私はもうこれ以上、何も訊くまいと思い携帯を閉じた。64年である。64年前の友の名をフザけたくそジジィが石碑に探す、刻まれていたらその友は、戦死しているのである。ふぢおサンの知る名前がそこに無いことを願った。それか急にジジィがボケて、名前も顔も思い出さなければいい、と思った。ふぢおサンには「戦争」が変えられもせず消せもせず語りもしない「事実」なのである。ただ、事実。

私がふぢおサンに訊くまいと思うような「事実」を、広島の被爆体験者である「語りべさん」が語っているという、事実。
事実が苦しいという重みを知ればこそ、平和であることの意味が身に沁みる。

…つくづく、惜しい。
なぜ今じゃないのか、私の修学旅行。
今なら、理解できることや身に沁みることが増えているはずである。
…あぁ…おこづかいをチョロまかすことだけに必死だった修学旅行が…消灯時間を過ぎても枕投げで盛り上がった修学旅行が…悔やまれる。
こんな孫でごめんよ、ふぢおサン。
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by yoyo4697ru980gw | 2009-05-15 14:15 | +ミルニング+ | Comments(0)

どうでもよいことを考えはじめたらキリがおへん どうでもえぇのについつい考えてまう どなたサンもその状態が「ミルニング」どすぇ


by MA