雪国のよに

職場の横幅の長い門を左に抜けるとバス停であった。

ちょっとこさ離れてるけども。まぁ、ちょっとこさ離れてるゆぅても20メートルもは離れていないと思う。でも、ちょっとこさは、離れてる。門が…でっかいから…大型ダンプが余裕で並進して入れるから…それを思えば幅7,8メートルとか10…メートルとか、あるのかな。その門の右端を出て私は右に曲がるのが帰宅ルートで、左端を出て左に曲がるとすぐにバス停がある。

私は某日、仕事中にテイクアウト品をお客様に渡した後で、ソースを入れ忘れたことに気付き「今追いかけたら間に合うかも!」とシャツ一枚で裏口からソースを持って屋外へ走り出た。店内にずっと居たので気付かなかったが、外は雪がチラついていた。うぉおぉぉぉさみぃいいぃぃいい!!と出た瞬間に思ったけれど、トンカツをソースなしで食べさすなんてこりゃ我が喫茶店の沽券にかかわると思い我慢して「真っ直ぐか?それとも右か??えぇい、左だっ!!」と左の道を、青年目がけて猛ダッシュした。屈強な男たちでさえコートを着込んで歩いているってのに私はシャツ一枚で、しかも腕まくりまでして雪の中を走っているのだ。ソースを届けるために。メロスに匹敵するほど、目的のはっきりした走りをみせた。しかし甲斐もなく、私がソースなしトンカツを手渡した青年の姿はどこにも無く、あるのは私の左手の中のソースのみ。私は走った。そして裏口から店内に入りオーナーに告げた。
「三日…三日だけ待ってください…」
違う違う。
「間に合いませんでした…ソース…」
がっくし。
オーナーが、仕方がないわ…今度来られた時に謝りましょう…と言わはった直後、青年は走ってやってきた。友人との約束を果たすために。ちがうちがう。
私は、青年の顔を見るなり、有無を言わさず、
「ソースですよねっ?!す、すいません!ごめんなさいね、すんません!」
と謝った。青年は、あまりの私の勢いに負けたのか小さく頷くばかりで、ソースを渡すとまた走って行った。

我が喫茶店で、オーナーが何をやっちゃいけないと言わはるか、とゆぅと「お客様に二度手間をかけさすこと」である。我が喫茶店はセルフ方式になっていて、お客様の食事が出来上がると番号札を呼び、取りに来ていただく。そして、返却口に返却していただく。時々、食事と飲み物が同時に出来上がらない時があり、その時は飲み物が出来たら、お客様を呼ぶのではなく私がホールに出てお客様まで届けるのである。取りに来ていただくのは一度きり。だから、オーナーは食事と飲み物が同時に出来上がることに大変厳しいし、お客様をお待たせすることがあれば、その原因を直ちに追究し、即、改善する。だから私が一番落ち込むミスというのが、この時起こした類のミスである。人間やから間違うことはある、とオーナーはおっしゃるが、このミスは我が喫茶店の大々的なミスなのである。店内で飲食されているお客様でなく、テイクアウトされたお客様に、わざわざ走ってソースを取りに「来させた」のであるからして、私の非はかなりの罪である。

立ち直りの早い私が素早く気持を切り替え一人で店番をしていると、常連のお客さんがいらして、特別メニューをおしゃった。
「あ~すんません、今ウチのメインシェフがおらんもんで…私、まだソレ作れないんですぅ~」
と返事をしたら、
「え~?作れないのぉ~??結構、長いでしょぉ~??まだ教えてもらえへんのぉ~??」
と、言わはった。常連さんは思いっきり冗談だったけれど、
「はい…かれこれ…3年ですねぇ…まだまだできんことばっかですねん…」
と返事をしながら、私にはイタいミスが蘇ってきた。あぁ…私、3年も居てまだ初歩的なミスするんだ…。がっくし。

その日私は肩を落として自転車に跨り、門の右側を出た。目の前の道路を横断するのに車の往来の途切れるのを待つも、なかなか車が途切れない。右から来る車がなくなったので、左を確認すると、バス停のベンチにひとりの男性がバスを待っていられた。私は、その男性から目が離されなくなった。

この世の人とは思えない、素晴らしい姿勢でベンチに腰掛けてらっしゃるのだ。
「おじさん」と呼ぶには年嵩があり「おじぃさん」と呼ぶにはちょいと足らないような年齢に見える男性で、華奢である。先述の通り、門の右端から出た私と、左側にあるバス停に腰掛けている男性には、ちょっとばかしの距離があった。にもかかわらず私には、その男性の特徴を瞬時のうちに認識することが出来た。それほどまでに、魅力的な男性だったのである。
紫とも灰色とも言い表せないなんとも粋な色合いの縮緬らしき着物を着慣れた感じで召しておられ、同色のフェルトの中折れ帽を被り、ステッキと呼ぶに相応しい素敵な杖を爪先の傍に突いている。足には白い足袋、光ってはいない金色の草履。
まるで明治の文豪がそこにいるかのような出で立ちという外見にも惹かれるのであるが、何がどうって、人間業とは思えないほど背筋がピンと伸びているのである。ピンどころの騒ぎではない、もう「ピンピンピピピピン」に真っ直ぐ伸びているのだ。ベンチには浅く腰掛けておられ、そのベンチと男性はまさに「垂直」。頭のテッペンまで真一直線。私が見ている間中、その姿勢は崩れない、崩れない。きっとバス来ても崩れない。っはぁ~っ、崩れない。私は、見とれた。そうしたらその男性が、じわわわわ~んとこちらを向いたのである。私が見ている気配を察してか振り向いたのであると思われたが、姿勢素晴らしきその男性の振り向きっぷりといったら、「ふっ」と振り向くとか「ぴっ」と振り向くとか「ぺっ」と振り向くとか、そんなんちゃう。じわじわじわわわ~ん、とゆっくりと、しかしおそろしくなほなほに、振り向くのである。そして男性は微動だにせずこちらを向いたまま決して背筋は曲がらず、尊き眼差しで私を見据えた。「目が合う」というような見方ではなくて、感情やらを一切感じることがない「見据える」というような見方であった。もう少し距離が近かったなら「素敵な着物をお召しですね」かなんかナンパ的なことを言い言い、もっと見とれるチャンスもあろうが、この距離ではそれも適わない。私は急に自分自身が恥ずかしくなり、車が途切れたのをこれチャンスとそそくさとその場を後にした。
そして遠く及ばないだろうが、私もあの紳士のように背筋を真一直線に伸ばしておれるような人生を歩むべきであると、心底思った。家に着くまでの7分間、私は一文字のハンドルを握りながら懸命に背筋を伸ばした。そして、それが並大抵のことではないことを知った。
自転車のペダルを踏みこたえて腰を上げた途端、さあと音を立てて梨状筋が坐骨神経のなかへ流れ落ちるようであった。
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by yoyo4697ru980gw | 2008-01-27 00:38 | +ミルニング+ | Comments(0)  

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