笑道入門:バケットリスト

死ぬまでにやっておきたいことを書くバケットリストのバケットが「Kick the bucket」のバケットで、首を吊る時にバケツを蹴ることが由来なのだというのを知った時に私は、高校の先輩が夕刊の配達中に首吊り自殺の第一発見者になった事を思い出した。
昨日、挨拶を交わしたおじいさんが今日この世に存在しない。
死の事実というのは、残されたほうに残るものである。

バイト先の社員さんがガンで実母を亡くされた時、後悔した事があると言う。
「まだ元気な時に食べたいって言った物があってんけど、そんなん体によくないからアカンゆぅて食べささへんかってん。こんな事なら食べたいって言った時に食べさせてあげたらよかった、って思って」
「どんだけ最善を尽くしても、ああすればよかった・こうすればよかった、ていう思いは必ずあるもんですよ」
「そうやねんなぁ…みんな同じ事、言うねん。絶対、そう思うって。わかってんねんけども、やっぱり思うねんよねぇ」
「すべての希望を叶えてあげたとしても別のことで後悔するんですよ、きっと」

入院中の祖父が真冬にスイカが食べたいと言った。
探し回ってハウス栽培中のスイカの小さいヤツを譲ってもらい食べさせたけれども、真冬のハウスで栽培途中だったスイカなんておいしいはずもなく、伯母は今でも「あれが夏だったらおいしいスイカを食べさせてあげられたのに」と悔いている。
祖父は春に結核で亡くなったが、いよいよ危篤の数日間、幼い弟に結核が感染してはいけないということで、中学生だった私は弟とともに親戚の家に預けられた。
最期に私だけでも祖父に会っておいでと親戚にすすめられたが、私は行かなかった。祖父の臨終に立ち会わなかった事を、花見の季節になると今でも悔やむ気持ちになる。
ひとの死って、そんな風にして残されたひとの中で噛み砕かれて細かくなり徐々に消化されるもんなんだろうね。

私が患っている病気の死亡率が数%だからというのも大いに関係はあると思うが、治療方法が入院治療しかないので、私はどうも治療を受ける気にならない。
しかし夫は一貫して、私に治療をすすめている。
私は治療をせずにうまくつきあっていく方法を模索しているのに、夫は良くなる可能性のある治療を受けることをすすめるのである。
夫婦で全く考え方が違うようだ。
夫の意見は参考程度でしかなかったが、立場が違ったら?と考えるようになった。
きっかけは、介護の職場で看護士さんと病気の話になったことである。
今すぐ死なないってわかっているからこそ、治療や完治よりも病気を飼い馴らす事で変わらない日常生活を送りたい、家にいて仕事も少しして痛くなった時に薬、そうして5年ほど騙し騙しの日常を過ごすと、ヒー坊も成人しその自立も見届けることだろうし、チョモもじきに社会人になるだろう。入院治療はそれからでもいいではないか。息子たちがすっかり独立したあとで。
看護士さんは、自身が内臓摘出経験者であり休業して手術をし仕事復帰をしたけれども、体力の回復にはしばらくかかったそうである。
入院の日程を子供の夏休みに合わせて手術はしたが、仕事も長く休んだらしい。
入院が必要な手術や治療というのは、通院で施される治療と違いそれなりの体力を身体から奪うのである。

「結局は自分自身で決める事やねんけど、家族とよく話し合ったほうがええで」
という看護士さんのアドバイスが、私の胸に妙に残った。

私はこれまで、残される側の人間の経験しかなかったけれども、健康体であるなしに関わらず考えてみれば死はとても身近なものなのかもしんない。
明日、交通事故で死ぬ可能性は誰にでもあるわけだし。
私が、残す側の人間として真っ先に死ぬかもしんないって、その後の家族の気持ちを考えたことがなかったな。
もし私の肉芽腫が心臓にでき重症化して死んじゃった場合、夫は入院治療をするようにもっと強く説得すればよかったと、きっと悔いるのだろう。
残す側の人間に自分をカウントした時と、残される側の人間にカウントした時とでは、考え方がまったく違ってくるんだな。

疼痛コントロールの薬の服用を中断して約3週間。
自分の身体が薬で鎮痛をせずしてどんだけ治ろうとするものかをみてみるのもひとつかなぁと思い、試してみたが痛かった。それでも、日に日に痛みに強くなっている自分がいる。痛みを知る以前であれば、救急車を呼んでいたであろう痛みでも、麻薬を飲めば凌げるなぁ~とか、座薬でなら散らせるなぁ~とか、対処できる方法を知っているため、救急車が用無しになっている。
その度に、こんな事を続けていたら「痛い」の許容範囲が命の危機管理の本能を狂わせ、いつか突然これまでにない痛みに襲われ救急車を呼ぼうとした時に、救急車の到着に間に合わずうっかり死ぬくらいまで我慢出来るのではないか、と末恐ろしくなる。
私はめきめきと根性をつけて挙句の果てに死ぬのである。
根性があるとたいがいは踏ん張るのだが、私は根性をつけたばっかりに息絶えるのだ。
要するに類い稀なる根性で死ぬのである。
私には自慢するものが生きている間はないんだろうけども、死んだ暁には死ぬほどだったその根性だけは、自慢に値すると思う。ただ、いかんせん私にそれを自慢するための生命がないもんで、まだ自慢出来ない段階ではありますが先に自慢しておきます、死ぬほどの根性、あります。
生きてるうちに頼んでおこうかな、私が死んだらその根性を自慢したがっていた、と言いふらして、て。

「死ぬまでにやりたいことを書くバケットリストってのが流行ってたことがあってな?やりたかったけど我慢してやらなかったりした事を死ぬと仮定して実際にやっていくねんけど、バケットリストになる何かが私にもあるかな~って思って考えてみたら、やりたい事の殆どをやってるねん。お金がなくて買わなかった物があったり、なんかしらの理由で我慢してやらなかったりした事もあったんやろうけど、買わなかったりやらなかったりした時点で、もう欲しくもないしやりたくもない事になってんねん。いまだに欲しがったりやりたがったりする未練の念はないわ。だから、もし私が死ぬ時が来たら延命治療とかしないで潔くプッツリと死なせて欲しい。私の身体にしがみつかずに早々に解放してほしいねん。天国に行ってやりたいこともいろいろあるし忙しいから、あんまりこの世でグズグズしときたくないんだよね~」

とりたてて書くほどの「死ぬまでにしたいこと」が無いので、残していく者として残された者が後悔しないように、自分がやるべきことのバケットリストを書いてもいいなと思ったのだけど、私がいくら万全を期しても残された家族は何かしらの些細なあれこれを悔いると思う。
些細な事をリストアップすると数限りなくあるはずだ。
私が死ぬと仮定して、家族が後悔しそうなことを挙げればキリがない。
どっちにしろ、マイナスに考えるのが心情というもんである。
「入院治療を嫌がっていたのにさせなければよかった」と悔いるし、入院しなかったらしなかったで「あの時、強引に入院治療をさせていれば」と悔いるに決まっているのだ。
だから私はバケットリストに項目を書き込んでいくようなことよりも、残される家族がよくもまぁ挙げに挙げたりになるだろう些細な後悔リストの項目を、死ぬまで減らしていくことをしようと思う。

たぶん誰がやっても死ぬまでに終わらないと思うから、なかなか死ぬに死ねないよね。
ヤんなっちゃう。
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by yoyo4697ru980gw | 2014-02-12 00:28 | +YOU WIN!!+ | Comments(0)  

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