薬物のチカラ

「3日くらい前からまた麻薬はじめてるんやんかぁ」
「やめてよ、こんな所で。ココでそんな言い方したら誤解されちゃうやん…」
御堂筋沿い本町あたりのベンチに腰掛けて、私が再び服用を始めた麻薬系の痛み止めについて話をしようと口を開いたら、ヒー坊が遮った。
「ここ大阪やで?大阪やったら本当に麻薬とかやってそうに聞こえるからやめて」
「そうやなぁ…」
伊丹の北部は住宅街に田んぼが点在するのどかな地区であるが、私が知る限りケシ農家は見当たらないし、眠らない街とはほど遠くみんなぐっすり眠っているようだ。
21時ちょっと過ぎに知人に電話をしたら、どっぷり寝てました~という声でお出になったので、我が家では通学に1時間強をかけている長男の帰宅もまだな時間であるが「夜分遅くにすいません」と謝った。
そんな眠るマチ伊丹でドラッグなんて闇取引ルートでも知らない限り入手困難なトリップ錠であるが、大阪だとちょいと薄暗い路地なんかにスポンて入っていけば何かの間違いで買えそうだ、最初の一錠だけが激安で。

私が“はじめた”麻薬とはもちろん医療用麻薬でオピオイド鎮痛薬と呼ばれる疼痛コントロールのための痛み止めである。
夏に劇的な回復中であると予想された私の脾腫は、そうは問屋が卸さないタイミングで時々痛む。
その痛みは通常の腹痛とは明らかに質の違う痛みである。

内臓の悲鳴ってこんなカンジなのかと人体の不思議には驚かされる。
通常の痛みの場合、ひとは安静にする。
じっとしていれば、痛みは和らぐのが通常である。
しかし医療用麻薬を処方されるほどの痛みである内臓の痛みは、同じ体勢でいられないほど痛い。
ひとが安静にしていられる痛みというのは、まだまだ初期の痛みのようだ。
じっとしておられず文字通り『のたうちまわる』ほどの痛みにのたうちまわれなくなったら、命が危ない可能性の病状に見舞われている。
のたうちまわれるうちが華なのだ。
だから、のたうちまわれるんだからまだハナだと思ってはいるのだが、反射的におでこをさすってみようかと思うので、その痛みは私の中で末期に近い。
それなので処方されている中で一番軽い麻薬系鎮痛薬を服用している。
救急車を呼ぶまでの痛みに耐えるのに私は顔をこれでもかと撫でまわし最終的におでこを指先でこれでもかと高速でさする。
その様を何度も見ていたむーちんは、私の激痛史上最高の痛みに耐えているおでこ高速さすりの最中に「毎回それするけどさぁ?なんでそうするん?」と訊いてきた。
んなこたぁ、知らんよ。
私が何か理由があってそんな行動を取っているとでも思うのか?救急車が到着するのを待つ20分間、私はただただ痛いのだ。自分の行動に責任が取れないほど痛いのに、知らねぇよ。手が勝手にそうしてる。この本能の行動に何か理に適った理由があるんだとしたら、私こそ知りたいわい。

痛みの原因が何であるかがわからずに検査に次ぐ検査をしていた時、非オピオイド鎮痛薬の座薬が全くキかない状態でのたうちまわっていたら、その様子を見ていた医者のひとりが「見るたびに姿勢が違いますもんね、相当の痛みだと思います。よくこの状態で耐えられているなと思います」と、言った。
気を失っていてもおかしくない痛みと戦っているうえに、私は服用している薬物を医者に把握してもらうため、むーちんに私のお薬手帳を提示するよう伝えた。
「この薬は麻薬の一種ですね。見た限りではこれも効いてはいないでしょうが」
中毒…廃人…人生ボロボロ…地獄の薬物依存…。
同じ死ぬなら、麻薬に関係なく健全な病人として潔く死んだほうがマシなんじゃないだろうか。
「故人の人生はおおかたデタラメでございましたが唯一その死に様だけはガラになく立派でありました」
終わりよければすべてよし。

本格的に麻薬の処方が始まった時、私はあまりの痛みに口が半開きなのを自分の力で閉じることが出来なかった。
痛いと呼吸が浅く短くなることを知った。
血液内科医と外科医との連携で私の脾臓摘出が検討され、手術が行われるまでの目下の問題は『痛い』ということに尽きた。
「先生…ロキソニン・ボルタレン・トラムセット、どれも何も効きません」
ソセゴン注射を打てば痛みはなくなるが、ほぼ意識も失う。
ひとに抱きついて足を交互に出すのが精一杯で、吐き気とめまいの副作用で片目をうっすら開けるのがやっと、20分でダウンする筋肉注射ソセゴン。事実上のトリップである。トリップしてる場合ではないのだ、私の置かれている状況は。
意識はあって痛みがない状態こそが希望である。
「とにかく辛くて動けないので、動けるくらいに痛みがマシになれば」
私の希望を叶える秘薬、それが医療用麻薬であった。
誰もが不安に思うであろう『麻薬』に対する思いを私は麻薬処方医にぶつけた。
「中毒になることはありませんか?体に害はないんですか?麻薬を飲むのって大丈夫なんですかね?」
医師の答えはきっぱりとしたものだった。
「仮に君がこの麻薬を毎日3ヶ月飲み続けたとしてもまず中毒にはならないだろうな。この麻薬ってのはな、痛みを和らげるためのベースの薬の服用があってそれでも痛みが和らがない場合に補助的に使ってやる麻薬なんだよ。様子を見て種類や量を調節していく必要はあるけど、痛みはこれでとれると思うぞ?今の君にとっては麻薬を飲むことの害より、これだけの痛みを我慢することのほうが害になってるだろうな」
言われてみれば、である。
私は呼吸すらまともに出来ていないではないか。

何度かの麻薬の微調整で『許容範囲内』の状況が作れた。
つまり、耐えられる程度の副作用で、痛くなく意識ある状態で動けるようにコントロールすることが出来た、というわけである。
人間の身体とは良く出来たもので、痛みで臥せっていると自然治癒力も働かないようである。
動けるようになり通常通り元気なフリをしていたら、私の脾腫も騙されてしまいすっかり症状を悪化させるのを忘れた。
そうして騙しているうちに私は本当に回復に向かい、とうとう補助的に使う麻薬どころかベースの非オピオイド鎮痛薬すらも服用しなくなったのである、まだ脾臓は腫れているのに。

入院もせずに自力で回復してきた根性を信用されてか私は、処方されている痛み止めの用法・容量の調整を自分の判断でやってよしと言われている。
いろいろ試してみて痛みの感じ方に応じた服用を自分で調節したらいい。
この指示に、私は『この医師は信用できる』と感じた。
私は、すでにひとつの薬の服用を早くからやめていたから。
その薬の副作用にだけ、身体がいつまでも慣れていかないのである。
薬には身体との相性ってモンがあるな、と思った。
それを判断出来るのは薬を服用している本人しかいない。
麻薬の副作用には割合と早く身体が慣れる。
副作用に慣れたからといって麻薬の鎮痛効果が薄れるということはないようだ。
痛みは感じなくなるのに最初はキツいと思っていた吐き気やめまいにだけ身体が慣れていくカンジ。
その時の体調がマシであれば、という条件はつくが、フラフラと歩き50mで3回は立ち止まるほどのめまいは、服用2~3日でゆっくりと歩けば立ち止まることなくそのまま歩き続けることが出来た。人間の身体の順応性は高い。
「イけるもんやなァ~」
それが私の感想である。
麻薬を服用するなどしていたら、普通の自分の状態じゃない状態で生活するものだというイメージがあった。
例えば、常時けだるいとか、異常にハイテンションだとか。
いたって普通だ、普通の自分の状態と違うところと言えば、驚くほどの便秘になるくらい。
それは下剤を使ってなんとかするので、クリアできること。
こんなに『普通の自分』の生活に近づけることが出来るとわかっていたら、自分から麻薬をお願いしていたと思う。
知らないから危険というイメージしかなかった。

麻薬を飲むのがイヤになっては疼痛コントロールの効果が得られないので、麻薬とともに副作用を軽減するための吐き気止めが処方されているのだが、その服用をまずはやめてみた。
医療用麻薬製剤は中毒にならないように調合されているが、本当だろうかと、それを確かめてみたくて。
こうゆう機会に恵まれたのも、私が医療用麻薬を処方されるような症状に見舞われたからこそ。
せっかくだからこの身をもっていろいろな体験と知識を得よう。

ドラッグ中毒者もタバコ中毒者も、最初の感想は一緒である。
「とても気分が悪くなった」
もう二度とやらない、と思ったのに二度目に手を出し、三度目があって、やめられなくなる。
これが『中毒性』というものの正体なら、私は医療用麻薬で中毒になる素質はあるだろう。最初の服用で『とても気分が悪くなった』から。
処方された吐き気止めを飲んでも、医療用麻薬の副作用はとても気分が悪かった。
吐き気止めなんて効いてないやんけ~と思っていたが、吐き気止めの服用をやめて『効いててアレか』とわかった。
吐き気が起こりすぎて動悸がする。
吐き気が辛いので吐き気止めを再び服用。
レスキュー(とんぷく)の麻薬は激痛の時にのみ服用で1日に3~4回ほど。
このレスキューは30分おけば何回でも服用出来るのであるが、1時間おきに6回の服用までいくと、副作用が強すぎて救急車で運ばれる。
なぜにそのような無謀な服用をしたのかと問われたら、泣くほどの激痛だったからである。

レスキューの『オキノーム散』は、服用後15分ほどで痛みが劇的になくなる麻薬であるが持続性があるとは言えない。
一晩中ぐっすりと眠れるほど効いてはくれないので、夜中と明け方の二度ほど鎮痛効果が切れて、泣く。
オキノームの効き方は特徴的で、突然キく。
泣くほどの激痛に震えながらオキノームを服用すると、浅い呼吸を10分ほどしていた人間が突然ふか~~~~~い深呼吸をする。
その瞬間から「キいた」と立って歩けるのである。
寝ている足元のテーブルに用意しておいた、こんなに「スグソコ」のはずの『オキノーム散』まで這ってようやっと手を伸ばす状態の人間が、服用後10~15分間うぅーーーっと低く唸って浅い呼吸でのたうちまわっていて、雨と晴れの境目のコッチとアッチのように、雨ゾーンからいきなり晴れのゾーンに入る。ウソのように真人間になるのだ。
これがひとりの同じ人間の身体で起こっていることかと、本人でも疑いたくなる変化である。
そんな成分が麻薬だと思えば、覚せい剤で「食わず眠らずでずっと遊べる」というのは納得できる。

『中毒』とは身体の状態ではなく精神の状態だな、というのが私の実感である。
身体が麻薬を求めるのではなく、心が麻薬を求めているのが中毒である。
身体が痛くて麻薬を求めていれば中毒になる心配はないが、心の痛みが麻薬を求めてしまったら残念ながら中毒になるのではないだろうか。

今の私の症状は一日に数回の激痛がぶり返しているので、試しにその痛みを和らげるため、副作用にいつまでも慣れなかった一種類の麻薬を服用することにした。
相変わらずの副作用である。これが二度とやらないと思ったのに『二度目』に手を出した状況と言える。翌日の服用が回数で言えば『三度目』である。
しかし、私はその麻薬をあっさりやめた。
理由は気分が悪いからである。
私は身体の痛みが麻薬を求めているので、その副作用が快感とはならないのだろう。

腫瘍が悪性である可能性もあると聞かされた時には、私の心も多少なりと痛んだ。
その痛みは「動揺」というヤツである。
自分の事でも不謹慎なモンだが、私はずっと「死ぬときゃ死ぬよな~」と思う性格だった。だから「こんだけ痛いし最悪な時には死ぬなコリャ~」と思った。
死ぬことがわかった場合には死ぬまでに自分のしたいことを考えて、出来るだけやってから死んでいこうと、そう考えていたが、実際には、私は「せねばならぬこと」を考えた。
「動揺する」とはこんなカンジなんだな、と発見した。
すんごく意外だった。
まさか自分が、せねばならぬことのあれこれを数える人間だったとは思いもしなかったな。

もしもの場合には、死ぬかもしれないことを誰には告げ、誰には告げないかを、自分で決めなければならない。
私が直接告げるのが誰で、私が告げた人にはどうゆう風に誰に伝えてもらうか。
重要なのは、絶対に告げない人のこと。最後まで告げずにいられる、という状況を作ってもらわねばならないのでこれを隠せるひとに頼むことになる。その人選はとても重要だ。
死ぬかもしれないんなら私は現実逃避してるわけにゃぁいかん。
時間がどのくらいあるか、という問題だってあるのだ。
最後の根性で、どこまでやれるだろう。
90が近い祖父母たちには何がなんでも私の病状も含め死んだ暁にはその事実まで隠し通してもらうよう手配せねばならぬ。
我が子の自立力も確認せねばならんし、夫の精神力も試しておかにゃならん。
実父に面と向かって感謝の言葉のひとつも述べておきたい。
ありがとうを言いたいひとがたくさんいる。

私の心の痛みは、麻薬ではなくひとを求めたのである。
身体の痛みはオキノームを求め15分で無痛になることを望んだが、心の痛みは誰に会い何を告げどう関わるかを求め私の考えを受け入れてもらえることを望んだ。
心の現実逃避が麻薬を求めたら、その副作用が快楽にすり替えられて快感となり、脳が心の痛みを考えないようにするかもしれない。
しかし麻薬の副作用というものが、不快なままでも快感にすり替わっても、変わらないのは「いずれその作用が切れる」ということである。
不快な副作用が切れれば快感になり、快感な副作用が切れれば不快になるのだ。
その時に感じる気分が、自分の本当の心の状態である。
本当の心が不快なもんだから快感になる麻薬に手を出し続けてしまう。
本当の心は快感だとわかるから、麻薬の副作用を不快に感じる。

心が痛むならひとを求め、良いひとに出会い続ければいい。
身体が痛むなら何も心配せずに麻薬を服用すればいい。
痛みは我慢するものではなく、正しくコントロールするものだということ。
私は投薬でそれを学んだ。
[PR]
by yoyo4697ru980gw | 2013-10-06 16:23 | +YOU WIN!!+ | Comments(0)

どうでもよいことを考えはじめたらキリがおへん どうでもえぇのについつい考えてまう どなたサンもその状態が「ミルニング」どすぇ


by MA