危険の予測

むーちんがつけたTVを見ていたら、最近の子供がよくケガをするということを言っていた。コケた時に手が出ないそうだ。危険予測の力がなく、鉄棒から落ちては骨が折れ、階段から落ちては歯が折れるそうだ。…子供なのに…どうしたことだろう。

私はつい1年ほど前に自転車に乗っていて道に迷い、注意が散漫になった挙句に電柱へ激突したが、ものすごく痛かったけれど骨は折れず歯も欠けなかった。どころか激突直前に「あ・痛いっ!」と前もって冷静にワレの激突後の衝撃を判断出来たほどである。…しかし避けれられなかった。予想通り、いや予想以上に痛かった。
子供の頃からよくコケ、よくぶつかり、よく事故にあったが、それが原因での打ち身・打撲・捻挫・骨折といったことは中学の後半あたりから徐々に増えてきたと記憶する。私の覚えている限り、小学生の子供の時分に手術をするまでのケガというのはたった一回である。年間何百回とコケ、ぶつかり、落ち、滑り、流れての『一回』なのだから、これはもう無傷に等しいのではなかろうか。
このことからもわかるように、子供というのはどうゆうわけだか自然に受け身が取れる。そして身体がフニャフニャなのだ。大人になってから「あれ?こんなコトで骨って折れるんだっけ??」と気付かされた時、子供がいかに不死身なのかに思い至るのだ。あの頃と同じ遊びしてたら…私、死んぢゃう。大人になるというのは、そうゆうことだ。大人しく遊ぶことを覚えることなのだ。…違うかな。

TVは、平成の子供には「危険予測の能力が無い」ということを伝えた。それを訊き、むーちんが言う。
「それって『能力』とちゃうよな?」
「うん、違うと思う。『本能』やと思う。」
「オレなんてポケットに手を突っ込んだままコケても受け身は取るで。」
「受け身って…取ろうと思って取るものか??」
受け身は…反射だ。考えている余裕など無い。身体がそうするものなのだ。そしてそれは、本能だ。平成の子供に無いのは『能力』ではなく『本能』なのではないだろうか。私は『本能』は「便利な生活に慣れる」ことで失うと思っている。それは、実体験によるものだ。

私たちの今までの生活というのは、聞くも涙・語るも涙の、涙チョチョ切れる波乱万丈な生活であった。安定する暇もなく崩れ、崩れては立ち直り、立ち直ってはまた崩してしまうという具合で、むーちんの家族も私の家族も我々夫婦の行動には気の休まる時はなかったであろうと察しがつく。そんな生活の中で、私は幾度となく『本能』に助けられた。不便な生活をしているほど、カンが冴えるのだ。それは殆どの場合、生きることに繋がった。
ゆぅても昭和後期から平成にかけての私の生活、貧富の差などそれほどでなく、格差社会と言えどもそもそものスタートラインが「三畳一間・風呂なし・共同トイレ」で始まっているわけではない。それなりの便利さというのは最初から保証されているこの頃。
しかしこの平成の世にあって、平成っ子である本能皆無であろう我が子に、私はハッキリと本能というものをみたことがある。本能を呼び起こす不便さというものは、本当に些細なことでもいいのだということをまざまざと見せられた出来事である。

それは数年前、私たちが「釣り禁止」という看板の前に陣取って釣りを楽しんでいた「チン」での事。チンは大きな溜め池で、ぐるっと一周するのに徒歩ならば15分ほどかかるだろうか。チョモが3年か4年かくらいの時に友人からの情報でチンをみつけ、その後は明けても暮れても放課後は釣り一色。友人たちが本格的な釣り竿を用意するようになり、投げ釣りでチンのヌシであるライギョを釣ろうと競い始めた頃、「引き」よりも「合わせ」で釣りを楽しんでいる私たちは初心を忘れることなく、いつものように拾った棒切れに針をつけ、目の前のブルーギルをチマチマと釣り上げていた。この趣味は早い段階で「便利さ」を捨てた。ブルーギルを釣ってもおかずになるわけでないので、私は材料費をケチり始めるのが異様に早かった。最初っから落ちている棒切れを釣り竿にしているほどのローコストである、次にケチるのはそれにつける針であった。針がなくなれば釣り具屋に針を買いに行くのであるが、それが「テグスと針がすでにセットになっていてあとは結ぶだけ」のヤツだと300円くらいで5セットほどしか入っていない。一方、「針」だけであれば100円前後でアホほど入っているのだ。「テグスは家にむーちんのがあるし…どう?」とけしかけるとチョモは、ちーちゃな針にテグスを巻きつける技を図書館で本を借り、習得した。はじめは「いつまでやっとんねんっ!」と突っ込みを入れるほどの時間をかけて針にテグスを巻きつけていたチョモであるが、回数をこなすうちに手慣れて来、数種類ある巻き方の中で最も難しいと本人が言う技でやっても「たいがいかかって15分」くらいまでに腕を上げた。簡単な巻き方であれば数分で出来るまでに上達し、友人たちが「もう仕掛けがない~…チョモ~…やって~」と言えば、出張サービスも請け負った。
そんなテグス職人の道を開いたチョモは、その奥に仕舞い込んでいた『本能』の蓋までいつの間にか開けていたようだ。この「不便な釣り」をしてきたチョモは、その不便さから本能を呼び起こし反射という素晴らしい行動に出たのである。それまでのチョモったら、運動神経がいいわりに遊びによる生傷が絶えなかった。見ているにそれは咄嗟の時の反射力がどうも鈍いような感じであった。

その日、ブルーギルに飽きて大物を狙うと言いチョモは木蔭ポジションの向こう側へと歩を進めた。私はいつものポジションで小物を狙っていたが木蔭ポジションにもブルーギルがいるとの情報を得、チョモのいる場所へと移動した。その時に、一段上にある歩道を歩いて移動した。チョモのポジションの上まで来ると柵を越え、私は下に降りようとした。その場所は急な斜面になっており木々の根と土が剥き出しになっているそれはそれはよぉ滑るポジションであった。私は、走って下ったのだ。チョモはその時、真剣に針をいらっていた。数分間の集中のお時間である。テグス職人はひとたび針にテグスを巻き始めると、何を訊いても「んー…?」という相槌しか打たなくなるほど集中する。チョモの横を、疾風のごとく駆け下りてゆく私がチョモの横を通り過ぎたと思った瞬間には、チョモは私の腕を咄嗟に掴んでいた。それは「あと一歩で入水」というギリギリのラインで間に合った。

「あ~~~~あぶな。意外と止まらなかったねぇ。」
私は「自分では止まれなかった」フリをした。そう「フリ」である。何よりもチョモが私を止めようとしたことに驚いた。止まれないスピートが出ていたわけではないからだ。本当に私が自分でも止められないほどの加速がついていたのだとしたら、私よりも軽いチョモの腕一本で私を止めることなど出来るはずがない。共に入水である。これが「咄嗟の反射」だということを確かめるには、私のスピードをどう捉えていたかが重要だ。私の行動をどれだけ「見ていなかったか」で反射のレベルも異なる。
「何かんがえてんねんっ!なんで走って降りてくんねんっ!」
「そうか…走って降りて来たからか…」
私はあくまでも「自分で止まれない」を演出。
「当たり前やっ!あんな上から走って来るからやっ!」
「なるほどねぇ…」
「なるほどねぇ、ちゃうわっ。」
「まーまーまー…」
「アホやろ?」
私の「なるほどねぇ…」の相槌は、オマエのアドバイスに対しての返しぢゃなかったんだよ、チョモ。「やはり反射的な咄嗟の行動であった」ことの確認を取っての感想だったのだ。
私はあの時、一番上の位置からは走っていない。チョモは針に夢中で私の行動など見ていなかったのだ。柵を越える前にチョモに声を掛けた。「ブルーギル、おんの?」「おんで?」というような会話をしたので、私が上に来ていることは見た。しかしその後は針に夢中で見ていなかったことがわかる。だって私、木の根っこを越える所まではゆっくり歩いて降りて来たの。最後の4~5歩分だけ「タ・タ・タ」って感じで走ったのね、しかもブレーキをキかせながらな。自分で止まる意志を持っていたのだ。ブレーキがかかっていることを判断出来ないくらい、私のスピードを見極められないくらい、「見て」はいなかったチョモ。しかし「タ・タ・タ」の足音で加速が付いていると察知し、反射的に私の腕を掴んだ。なるほどねぇ…本能だなこれは。針にテグスを巻きつけるトコロから釣りをしている子供は、もはやいないであろう。ロープを「すんなり解けるのに緩まない」結び方が出来る平成っ子が何人、いるだろうか。そんなことやらなくたって、子供のこづかいで買える値段で釣りの仕掛けが売っていて、結束バンドで簡単に結束できハサミで簡単にちょん切れるのである。金を使えば本能は必要ないのかもしれない。しかし私はしかと見た、不便な釣りを続けるうちにチョモの本能に磨きがかかっているのを。こんな些細な不便さでも、奥底に仕舞い込んだ本能を呼び起こすことが出来るのだ。

TVでは、習い事や塾や、遊びがゲームであったりと、平成の子供は他人とのコミュニケーションを取る機会が少ないために危険予測をそういった人間関係から学ばない、というようなことが論ぜられていた。私は違うと思う。本能は誰にでも備わっているのだ。その本能を便利な日常が燻らせ、発揮しなくてもよい環境を作っているだけのことだと思う。
他人とのコミュニケーションから危険予測を学ぶのであれば、習い事もせず塾にも通わず行った先で他人と勝手にコミュニケーションを取って遊んでいるチョモなんて、危険ばっか予測している人間になるはずだ。そして危険予測ならおまかせのチョモは、絶対に危険な目になど遭わないはずなのだ。しかしチョモはこないだ、危険を予測できずに学校のガラスを割り2100円を支払った。2ヶ月間のおこづかい停止処分である。

平成の子供たちよ、不便な生活をして本能を呼び起こすのだ。
ゲーム脳で鈍った伝達回路を活性化して、本能を研ぎ澄ませ。
本能は反射として顕れ、咄嗟の時の助けになることだろう。
まずは今夜、目覚まし時計を止めてみよう。
確実に、
明日、
遅刻するだろう。
急にやっちゃダメだよね。
とりあえず、親指と人差し指を輪ゴムで縛っとくなんて、どう?意外に不便だよ。「不便」ってのがどうゆうことかピンと来なければ折り紙で鶴を折ってみるといいよ、足でね。いわゆるこれが「不便」です。羽を折り込むトコね、あっこからもう不便。胴体と尾を折り曲げるトコね、えらい不便。最後のクチバシ出す時ね、どんだけ不便か。ほんで息を吹き入れて広げるのね、完全に無理やで体勢的に。まァ実を言うと息なんて吹き入れなくても広げられるねんけどな、こむら返りには気をつけたほうがええで。ツってたら歩くの不便でしゃ~ないからな。
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by yoyo4697ru980gw | 2010-02-16 00:06 | +in the sky?+ | Comments(0)

どうでもよいことを考えはじめたらキリがおへん どうでもえぇのについつい考えてまう どなたサンもその状態が「ミルニング」どすぇ


by MA