貸出カード

私が小学生の頃の学校の図書室の貸出方式は「手書き申告制」であった。たしか市の図書館でも同じようなやりかただったように思う。今ではバーコードでピっとやって、貸出カードを持っているのは人間のほうだけだが、手書き申告制の貸出カードは、本も裏表紙の内側にカードを持っていて、本のカードに自分の名前と年月日などを書く、自分のカードには本の名前と年月日を書く。二つをセットにして「日付の箱」みたいなものに入れると、そのカードは私が本を返却するまで仲睦まじくクリップで留められたまま借りた日付の箱の中で眠っているのである。本の裏表紙のカード入れには年月日だけを書く欄があって、最後に書かれてある日付が自分の借りた日付なので、これを目安に「そろそろ返す日が近づいている」ということを知るようになっていたと思う。これが、読みたい本があるというわけではないのだけど…とヒマ潰しで図書室に行った時「これにしよう」と思うポイントになることもあった。カード入れの最後の年月日を見てあまりに古いと「3年も誰にも読まれてないのか…読もう。」と思ったり、最後に借りられた日付になんか心当たりがあると思って借りると、身内の誕生日だったりした。

この手作業の貸出カードには「この本を借りた」という歴代の氏名が当然、早い順から書かれてあるわけだが、私はそのカードに見知った名前をみつけたことはあまりなかった。なぜなら、私がひとつの小学校に居たのが長くても2年間だけだからである。転校生というのは当たり前だけれど、転校初日には友達がいない。昼休みには「図書室どこ?」と訊いて、しばらくの期間は図書室に逃げ込んでいた。何から逃げるって質問から逃げるんである。休み時間ごとに転校生はいろいろと質問されるもので、初日の給食準備の頃ともなれば「転校生見物ツアー」が激安パックで出発時間とあいなり、担任は「自分のクラスに戻りなさーい」と廊下でUターンさせる事態となる。小学校入学から「転校生」で始まった私の小学生時代は、とにかく図書室に潜伏することが基本中の基本であったわけだ。
給食を食べ終わる頃に図書室を訊いて「図書室まで連れてってあげる~」となっても、当時の図書室の中は「私語厳禁」というルールがあり、ここで何かの質問をされる心配はなかったのである。

その「手書き申告制」のカードの時に、クラスメイトの中でもまだ顔と名前を覚えていない女の子に「この本、読んだよね?」と訊かれたことがあった。本のカードに私の名前が書いてあったと言う。私が先に読んだのでカードに名前があり、彼女が借りる時に「転校生の名前だ」と気付いたらしい。ずーっと話しかけようと思っていたが何て話しかけようかなぁと思っていて、そしたら自分が借りようとした本に転校生の名前があった、そこで読んでから本のことを話題に話し掛けてみようと思いついた、と言った。そんなことを考えなくても…というようなことを言ったと思うが、彼女はクラスで質問攻めにあっている私を遠巻きに見ながらその表情に「困っている感」を察し、「だって図書室に逃げてたじゃん」と見抜いていた。私は、6年生で最後の転校をしたその時「質問攻め」経験を4回も繰り返しており、血液型を言い誕生日を告げ観ているTV番組を挙げ家の場所を説明するのが、いいかげん億劫になっていた。とくに「勉強がどのくらい出来るか」と「スポーツがどのくらい出来るか」というのが当時の小学生の「転校生調査対象」としてクラスメイトからいちばん厳しくチェックされる項目であった。これにはある程度のデータというものが必要で、身辺調査は一日やそこらでは終わらない。逃げたくも、なるでしょーが。

彼女は予定通り「本の話題」で会話を進めた。私は読んだその本の内容が思い出せず「どんなハナシだったっけ~」と訊いた。彼女が登場人物を次々に登場させて物語るうちに私も思い出して「そやった・そやった~」となったのだが、本の内容説明が完了すると、彼女がこう訊いた。
「どのひとが一番、好き?」
登場人物の中で、どのひとが好きか。ううーーーん…と登場人物の性格などを思い出して私は登場人物の名前ではなく、容姿で答えたのだ。
「やっぱあのおじぃさんかなぁ…ちょっと太ってて緑のズボンの。」
「緑のズボンて?」
私は彼女に「ほら、ドコドコの場面で出てきた…」とおじぃさんが言ったセリフやその活躍について説明した。すると彼女はその登場人物を「ダレダレのおじぃさんで名前はダレソレ、ナニナニをドレドレしてた人でしょ?」と当ててキた。「そ~そ~そ~そ~!」とビンゴ~に喜んだ私に、彼女はその後の私の読書人生を変えてしまう衝撃的な発言をしたのである。
「ダレソレおじぃさんって、緑のズボンはいてるて書いてた?」
「書いてたかどうかは忘れたけど…絵では緑のズボンだよね?」
「絵…あった?」
「…へ?!…絵ならいっぱい…。」
彼女が今日、返却する予定であるその本をパラパラめくって、私は愕然としたのを覚えている。挿絵など、いっぱいどころかひとつもなかったのだ。私には「ウソぉ~ん?!」という気持ちしかなく、返却期限がまだあったので彼女からその本を一日ほど又借りしたが、その本にはおじぃさんが小太りであることも緑のズボンを穿いていることも書かれてはいなかった。おじぃさんの容姿について触れている文章は一切ない。私は、勝手におじぃさんをメタボ体型にし緑色のズボンを穿かせていた上に、本の挿絵でそれを見たと信じて疑わなかったんである。

当時、私はこの事実にかなりのショックを受けた。今まで私が読んできた数々の物語、挿絵で見てきた主人公たちは、もしかして絵で見たわけではないんぢゃないか。シンデレラが着ていたパフスリーブの水色のドレス、人魚姫の裸の上半身に首からさがる真珠のネックレス、太陽に照らされて男が脱いだ焦げ茶色の外套、落ちこぼれの魔女のボロボロの黒いマントとボサボサの長い髪。最後に咲いた花壇のチューリップはピンクだったのに…それらはすべて、挿絵では見ていないのではないか。
この衝撃の体験は、その後の私の読書を大きく変えた。
「知る」ということが、想像の産物を「消す」ことになったのだ。私は、文だけで書かれた物語の登場人物をそれ以降、具体的に想像しなくなったのである。「おばぁさん」が出てくれば普遍的な「おばぁさん」が出てくるだけである。おばぁさんの腰が曲がっていると書かれていなければ、私の中の「おばぁさん」の腰は、勝手には曲がらなくなった。主人公の性格がどんなによくてもキレイな話し方をしても、文章に「絶世の美女」であるという容姿の記述がない限り、主人公の外見はだいたい「まぁまぁ」である。女性がタバコに火をつけた時だけ、とくに書いていなくても女性の指と爪は長くなる。その爪が真っ赤に塗られているかいないかが唯一、あれほど勝手につけてきた「色」が残る部分だと思う。赤い爪の女の性格は、極めて悪いのが相場だ。

「知って」しまっては「想像の自由」が制限されるのだ。場合によっては「かき消される」ことにもなる。
このことが裏付けられる出来事がのちに、もう一度あった。「ちびまる子ちゃん」のTVアニメ化である。私は先にコミックで「ちびまる子ちゃん」を読んでいた。りぼん・なかよし・少コミ・別マ、は部室に持ち込まれる少女マンガ誌の代表格であり、「ヒマ潰しのコミック」を読んでいた少女たちは、高校受験を意識し始める頃くらいから「息抜きのティーンズハート」へと心変わりする。少女はそうやって大人になってゆくんであるが、これがどーしてライトノベルを読みながら「ちびまる子ちゃん」も読んぢゃってたの、私。
その時、知らず知らずのうちに「まる子」のアテレコを想像でやっていたようである。アニメの「まる子」の声を聴いた時、「うぉおぉおおおぉおお~まる子の声がちが~~~~~うっ!」とショックを受けた。「ちが~~~~~うっ」と思うということは、「声」を与えていたのだ、コミックの中の「まる子」に。私はまたも勝手なことを…。見てもいない挿絵を見、聴きもしていない声を聴く、私…アブネーかも~。
この「まる子事件」には続きがあるのだが、アニメの「まる子」の声をひとたび聴いてしまってからというもの、今までコミックの「まる子」にお供えしていた「私のまる子の声」が跡形もなく消えてしまったんである。「こんな声ではない」という感覚は覚えているのだが、どんな声だったのか…と思い起こしても「その声を思い出す」ということが不可能なのである。これにはただただ驚いた。コミックを読んだ時に今まで「まる子」が発していた声、それが全てアニメの「TARAKO」の声へと摩り替わっているのである。「いや違う…前に読んだ時のまる子はこの声じゃなかった…」そう思うのに、じゃぁ前の声に戻してセリフを言わせることが出来るかっつったら、完全に無理なんである。友蔵も泣くほどの「ワシのまる子やー…」現象である。

さて、あなたが見ている挿絵、聴いている声は、想像の産物ではないですか?
アヤシイかなぁ~と思うような身に覚えがあるのなら、「想像の産物かどうか」と確認することは、是非とも怠りましょう。
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by yoyo4697ru980gw | 2009-10-23 22:02 | +ミルニング+ | Comments(0)  

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