暑中見舞い連絡事項

教育機関は節目の行事を怠らない。担任は必ず年始と小暑の書状を我が子に宛て、その葉書はしかるべき時期に届く。届くということは時期をバシっと合わせて投函していることを意味する。そのことに私は毎年、恐縮する。私が怠っているもんだから。賀状は書くけれど、暑中見舞いまで書くという習慣が私には無い。残暑見舞いを2、3いただくこともあるがそれにはご挨拶と近況報告を兼ね、だいぶ経ってから返事を封書にするも一筆箋の一枚は白紙のまま添えるという怠慢。ウダウダとつまらない事を書き綴るのに節操がない私はチョチョイのチョイで挨拶状なぞ書き上げるように思われているが、「筆マメ」なのと「メモ魔」なのとは根本的にタチが違うのである。つまらんコトにならススむ筆というものは、常識が問われると途端に滞る。

チョモの担任グっちゃんは、お若いのに暑中見舞いを生徒に宛てる。さすが教職、さすがマメ男グっちゃん、実にマメ。
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暑中見舞いのついでに連絡事項もツけてきた。大丈夫なのか、グっちゃんのクラスの生徒よ。夏休みに入る時すでに登校日の事は聞いているハズだが、二週間しか過ぎていないのに担任が登校日の念を押している。強調に線まで引いて、しくだいを忘れるなと言っている。グっちゃんの座右の銘は『成せば成る』である。そんなグっちゃんから手書きで添えられたメッセージは「努力した分、自分の力になる“努力は裏切らない”
努力の密度を量るのはむつかしい。私は日々「努力して生きたゼ今日も!」と思っているが私以外のひとは皆、私を運で生きていると言う。私の努力は自分の思うほどのものではないらしい。私の「努力」とは「がむしゃらに頑張るより肩の力を抜いたくらいが効率が良い」ということを前提とした「いかに脱力するか」に注がれる「努力」である。つい頑張ってしまいそうになるのを「ここまでやりゃぁ…」くらいに抑える努力をしているので怠けているようにしか見えないだろうが、すんげぇ努力をしているのだ。今日やってしまえる事をわざわざ明日にまわしているのである。ほら、努力すればするほど怠け者に見えてんぢゃん。努力した分、他人の力を借りる“努力は裏工作”みたいなコトになってんぢゃんよ。

「登校日って、何すんの?」
「あー…課題の答えを配んねんて。」
「へ?わざわざ答え配って何すんのよ?」
「マル付けするのに答えが要るからちゃうか?終業式の日に答えも配ってくれたらええのにぃ…わざわざそんなコトしてぇ…」
「学校から信用されてねぇんだな…最初に渡したら答えを写すヤツがいるって思われてんだな…」
「そうやろな。」
ま、答えを写すようなヤツは18日の時点でも課題なんてしちゃいないサ。答えが配られた後に10日近くも猶予があるんだから、ちゃっかり写すって。
登校日の連絡事項を念押しして暑中見舞いまで生徒に出したグっちゃんの努力は、勉強嫌いの生徒には裏切られてしまうのだろう。純粋一直線の道の上に居る彼らには、努力・努力と言ってもな~んの効果も無いもんである。だって「努力」には「どっからどこまで」っていう明確な線引きが無いからね。善と悪に敏感な彼らにはハッキリと善は善、悪は悪、白は白、黒は黒、というわかりやすいカタチが要るのである。生徒が何かに頑張って取り組んだ結果、それに勝ち負けがハッキリとついた場合、教師は「努力したから勝った」「努力しなかったから負けた」とハッキリとは言わない。勝ったことが努力した結果だとは言うが、負けても頑張ったから無駄でないと濁すだろう。彼らは「かけっこをみんなで頑張りましょう」という年齢ではないのだから、もうそれは通用しない。全力で彼らを信用するしか教育者としての道は無いぞっ!つかみどころのない「努力」に対しては「裏切っている」という自覚もないだろうが、100%の信頼に対しては「裏切っている」という自覚を持つのが彼らの特徴である。彼らは知っているのだ、信じてくれるひとを裏切るという行為が卑怯なことこの上ないことを。彼らは悪態をついて悪びれてはいるが卑怯者に成り下がる気はさらさらないんである。ソコまで自分を落としたら自力で這い上がれる自信なんて持っちゃいないのだ。何でも自力でやれていると思っちゃってるもんだから、力や知恵を借りるのはプライドが許さないの。そのクセ自力でやれることとやれないことのラインはばっちり引いてて、やれないトコにまで落ちる前でちゃんとやめるという用心深さはみせるのだ。私も多感な年頃には悪びれることに全神経を傾け、自立している自分に酔っていたわけであるが、こうして親になって我が子の「多感な時期」を通じ、親の立場からワレの辿った「イキった期間」を観察してみれば、そりゃそりゃおっそろしいったらありゃしない。あの時のあの行動もあの言葉もアレもソレもドレもコレも、両親にはお見通しだったんである。か~っ!こんなおっそろしいことがあってたまろかオ~マイガ~っ!!その度胸がいかほどか試されていたのだ、どの時も。小心者の心情を見抜かれ掌の上で踊らされていたばかりか、純粋イデオロギーを利用されええようにしてやられていたわけである。それを知らぬは傲慢な自分ばかりなり。

「配られた?答え?」
「うん、配られた。…新しいしくだいも配られた。」
「新しいしくだいで答えを写せないように時間を奪われたわけか…」
「うーん…まぁ…やってもいいし、やらなくてもいい、でもやっといたほうが今後のためにええで、てゆ~そうゆ~しくだい、な。」
「ビミョ~…。『やるひとはやるんやろうなぁ…やらなかったら差がつくんやろなぁ…』ていう不安を煽ってキたか?」
信用してんだかしてないんだか微妙なセンだな。期待に応えるっていうわかりやすい先生と生徒の関係は時代に合っていないのだろうか。勉強が大っ嫌いだった私でも「おまえ、次の試験は受かるよな?」と期待されたら「受かるよ!」とその期待には応えたもんだ。信じてもらえる、ということの功績はデカい。「ゆとり教育」の次は「探り教育」かな。早いこと「信頼教育」に変えたほうがええで。「信じてるで」の一言で踏み外しそうになってる道を彼らはなんなく修正しよる。それを自力でやってるとおもとるおめでたいヤツらだ。うぃのぉ…かつての自分を顧みるとナミダがチョチョ切れるわぃ。悪びれてんと教師の期待に堂々と応えて大人を唸らせてみなよ、そっちのほうが手っ取り早くセンセーをギャフンと言わせられんで。文字通り「ギャフン」て言ってる教師なんか見たことないけど。
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by yoyo4697ru980gw | 2009-08-31 15:15 | +ミルニング+ | Comments(0)

どうでもよいことを考えはじめたらキリがおへん どうでもえぇのについつい考えてまう どなたサンもその状態が「ミルニング」どすぇ


by MA